アメリカ倒産. 4

アメリカ倒産

第1章 経済的倒産──制度資本の失われた現場

1.3 市場の暴走と制度の無効化

市場とは本来、社会の中で財やサービスを交換するための仕組みであり、制度によって制御されるべきものであった。ところが20世紀末以降、この主従関係は逆転した。制度が市場を規制するのではなく、市場が制度のあり方を規定する。市場が自らのロジックを制度の奥深くまで浸透させ、政治・教育・福祉・医療・司法といった非市場領域をも“取引化”していく。この過程をジョン・ラウルズの正義論的視点から見るならば、「制度的公正」の理念が、経済的効率によって侵食されていく過程といえる。かつて制度は、倫理の枠組みの中で市場を位置づけていた。いまや市場が倫理を市場化している。
この市場の暴走は、単に経済政策の偏りとしてではなく、「社会的想像力の変質」として理解する必要がある。すなわち、人々が「何を価値とみなすか」という集合的感覚そのものが、市場的尺度に置き換えられているのである。企業経営の成功モデルが行政改革に模倣され、大学が「顧客満足度」で評価され、医療が「コスト効率」で測られる。制度の目的が「公正な分配」から「効率的な運用」へと移行し、公共的領域に市場的言語が定着する。結果として制度は、その存在理由を「競争力の維持」に求めるようになった。競争に勝てなければ、制度そのものが「淘汰」される──この発想が、公共性を市場の原理に従属させる決定的な契機となった。
この現象を制度経済学の視点から読み解けば、それは「制度的パフォーマティヴィティ(institutional performativity)」の問題である。すなわち、制度がその理念を超えて、市場の期待に応じて“演じる”ようになる。たとえば大学は研究機関であると同時に「ブランド」として振る舞い、自治体は住民福祉の担い手であると同時に「投資誘致の企業体」と化す。このとき、制度はもはや理念に基づいて行動していない。理念を「演出」することで正統性を維持しようとする。形式的には機能しているように見えても、その内側で制度はすでに空洞化している。ここに生じるのが、**制度の無効化(institutional nullification)**である。制度が社会的期待に応えようとすればするほど、自己矛盾に陥る──「倫理を数値化せよ」「信頼を可視化せよ」という不可能な命題を、制度が市場の名のもとに背負わされているからである。
こうした制度の無効化は、グローバル経済の波及によって加速した。資本の移動が国境を越え、通貨よりもデータが価値を持つ時代、国家の政策権限は市場の評価に制約されるようになった。ムーディーズS&Pの格付けが一国の福祉政策を左右する。つまり、国家の制度さえも「市場の取引対象」として評価される。制度が市場に従属するだけでなく、制度そのものが「金融商品」として取引されるようになったとき、公共性はその根拠を失う。国家とはもはや法的主体ではなく、「信用のパフォーマンス体」として運営される。この過程を、ジグムント・バウマンが「液状化した近代」と呼んだ理由がここにある。制度が固有の形を保てず、市場の流動性に同化していくとき、それはもはや“制度”ではなく、“手続きの形をした市場”である。
制度の無効化は、政治の言語にも現れる。「構造改革」「競争力強化」「成果主義」といった政策スローガンは、市場の言語を制度の内部に導入する。これらの言葉は、制度の正当性を説明する代わりに、「効率性による正当性」を装う。だが効率性は倫理を代替しない。むしろ倫理を削ぎ落とす。効率性は「手続きの短縮」を意味するが、それは同時に「他者の声を聴く時間の削除」でもある。制度が効率を追い求めるほど、他者を聴く能力を失い、公共性の呼吸が止まる。討議の時間を削ることは、民主主義の呼吸を止めることであり、制度疲弊の最終段階である。
ここで「倒産」というメタファーが再び響く。倒産とは、資金繰りの停止ではなく、信頼の流動性の喪失である。制度が信頼を維持できないとき、それは形式上の運用を続けながら、実質的に無効化している。市場の暴走によって制度が信用を失うとき、倒産はすでに進行しているのである。だが、倒産は終わりではない。それは新しい制度の出発点であり、倫理の再投資が始まる地点でもある。制度の再生には、効率ではなく共感、競争ではなく関係、成果ではなく物語が必要だ。制度が市場の速度から一歩退き、「語りの時間」を取り戻すとき、公共性は再び息を吹き返す。
制度が無効化される過程を止めるには、制度の評価指標を変えなければならない。経済的成果ではなく、関係的豊かさ(relational richness)──すなわち制度がいかに他者と世界を結び直しているか、という観点で測るべきである。制度を再び「聴く装置」として設計し直すとき、市場は制度の中に秩序を見出すだろう。制度が語りを取り戻すとは、制度が再び倫理の時間に生き始めるということである。倒産の只中でこそ、制度は自らの意味を問い直す。市場の暴走を止めるのは、規制ではなく、語りの回復である。