アメリカ倒産. 3

アメリカ倒産

第1章 経済的倒産──制度資本の失われた現場

1.2 公共性の消滅と制度的疲弊

公共性とは、本来、私的利害を超えた「共に在る」ための空間であり、法・制度・倫理の交点に存在していた。それは、アーレントが『人間の条件』(1958)で述べたように、「世界の間に立つ行為(action)」としての空間であり、異なる者たちが共に現れるための舞台であった。だが現代社会において、この公共性は静かに疲弊しつつある。制度が生きていた時代には、法の形式と倫理の内実が一致していた。法は秩序を与え、倫理はその魂を吹き込んでいた。だが21世紀の制度は、形式を維持しながら内実を失い、まるで心臓が止まったまま動き続ける身体のように、冷ややかな自動装置と化している。そこにあるのは「制度的疲弊(institutional fatigue)」──すなわち、社会の制度が自己の目的を見失い、運用そのものが目的化していく過程である。
この制度疲弊の根底には、二つの要因がある。第一に、制度の経済化である。新自由主義の台頭以降、行政・教育・医療・司法までもが「効率」「成果」「コスト削減」の言語に飲み込まれた。公共性の維持という非市場的価値が、市場の評価尺度に転化され、制度の目的が「公正」から「収益」へとずらされていった。これにより、制度の倫理的根拠は薄まり、手続きだけが形式的に残る。第二に、制度の感情的基盤の崩壊である。制度は理念だけでは機能しない。そこには「信頼」や「期待」といった感情的な接着剤が必要であり、それこそが制度的連帯(institutional solidarity)の条件だった。しかし、その感情的基盤が、断片化した情報空間と消費社会の中で摩耗し、制度の「共感可能性」が失われていった。
公共性の疲弊は、まず言葉の次元に表れる。かつて「公益」「奉仕」「責任」といった言葉は、社会的行為の基準を示すものであったが、いまやその響きは空疎なスローガンとしてしか残っていない。制度がこの空疎な言語を繰り返すとき、それは信頼の自己模倣を行っているにすぎない。リクールが『記憶・歴史・忘却』(2000)で指摘したように、制度は「語り得ること」によって自らの正統性を維持する。語る力を失った制度は、同時に倫理的記憶を失う。公共性が空洞化するとは、社会が「語りの場」を失うということでもある。
では、公共性を支える制度の「生命」とは何か。それは、手続きの中に宿る倫理的意識である。制度の疲弊とは、その倫理的意識が習慣化によって鈍化し、形式化によって凍結されることである。たとえば行政手続きのデジタル化や自動化は利便性を高める一方で、「顔の見えない応答」を生み、他者への責任を減衰させる。ハーバーマスが説いた「討議的公共性(deliberative public sphere)」は、まさにこの倫理的応答の形式化を警戒していた。彼によれば、公共性の正統性は、討議そのもののプロセスに宿る。だが現代では、その討議がプラットフォーム化され、アルゴリズムによる「共感の模倣」に置き換えられている。
制度疲弊のもう一つの兆候は、「時間の断裂」である。制度とは本来、過去から未来へと倫理を橋渡しする装置である。過去の約束を現在に生かし、未来の責任を現在に刻む。だが、短期的成果主義に基づく政策運営や、選挙サイクルに縛られた政治構造は、この時間的連続性を断ち切った。制度はもはや「未来への契約」として機能せず、「現在の効率」を測る計算機へと変貌した。制度が未来への語りを失うとき、社会は同時に希望の物語を失う。それが公共性の消滅である。
このように、制度疲弊とは単なる行政効率の低下ではなく、倫理的時間の崩壊である。過去の約束(信頼)と未来の約束(責任)を結ぶ力が失われ、制度は現在だけを生きる無時間的装置と化す。この状態こそ、「倒産」に似ている。帳簿は閉じられず、信用はまだ残っているように見えるが、実際にはもはや流動性がない。制度が動いているように見えるのは、惰性でしかない。制度的疲弊の本質は、活動の停止ではなく、意味の死である。
だが、ここで重要なのは、この疲弊を単なる衰退として見るのではなく、「再生の予兆」として読み解くことだ。制度が自動装置化するのは、そこに人間の物語が失われたからである。ならば、制度を再び人間的なものへと取り戻すには、語りの回復が必要となる。公共性とは本来、語り合うことによって生成される「関係的空間」である。制度の再生とは、倫理的理念の再注入ではなく、失われた語りの再創造である。制度疲弊を乗り越える契機は、法や政策の改革ではなく、語りを取り戻すことにある。制度の再設計とは、手続きを超えて、他者の声を聴く構造を再び制度の中心に据える試みでなければならない。
したがって、公共性の消滅とは、同時に「制度詩学」の始まりでもある。制度詩学とは、制度の中に沈黙している声を聴き取る感受性のことである。疲弊した制度の底に、まだ微かに残る呼吸があるとすれば、それは人々の物語の残響にほかならない。倒産寸前の制度にも、なお「物語の種子」は眠っている。その種子が再び芽吹くためには、制度を数字や命令の体系としてではなく、語りの生態系として見つめ直す必要がある。制度は語りであり、語りは再生の倫理である──この視点が、公共性を蘇らせる第一歩となるだろう。